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松山電気軌道廃線跡調査02 江ノ口~新立


松山電気軌道は、01概要でも説明した通り、三津の江ノ口から道後を走っていた。

上記地図は、現在の三津(江ノ口)周辺の地図に、松電の経路と電停名を書き込んだものだ。

当時の正確な地図がない為、目安と考えていただきたい。

また、駅名も地図により異なるがこのHPでは、上記の電停名で統一とする。

上の写真は、当時の三津浜周辺の地図である。

冒頭で紹介した地図と大体同じ範囲を撮影したものである。

ここで注目していただきたいのは、松山電気軌道の軌道の横に川が流れていることである。冒頭の現在の地図には川はない。この川は堀川という。

堀川の向こう岸、つまり地図の上側には稲荷新地と呼ばれる島が存在する。

稲荷新地は、遊亭のあった場所である。

稲荷新地と江ノ口とは、2本の橋でつながっているのが分かると思う。

左側は思案橋と言う橋である。

当時の人は、遊郭でどの女と遊ぼうかと思案しながら思案橋を渡ってたそうな。

今度は昭和2年頃の地図である。

上の三津浜商店案内の地図と比べると、稲荷新地が陸続きになっていることが分かる。

これは、湾口の埋め立てによるものだ。

この地図にも江ノ口と住吉の間にある筈の堀川電停の記載がない。

三津浜商店案内には、確かに堀川橋のたもとに堀川停留場と描かれている。

面白いのが、江ノ口は停留所となっているが、堀川は停留場と描かれている点だ。

住吉町はというと停留所と描かれている。

わざわざ「所」と「場」を使い分けているのには意味があるのだろうか。

終点の江ノ口や、住吉町は大きな電停だったので「所」、堀川は小さな電停だったので「場」としているのかもしれない。

しかし、この地図以外で「所」と「場」を使い分けているものが見つかっていないため、このホームページでは基本的には「電停」と記載する。

それでは、廃線跡をたどる旅のスタートである。

出発は三津の江ノ口である。

松山電気軌道は新幹線と同じ1435mmのレール幅である。写真でも幅広のレール幅であることが分かる。

当時の伊予鉄は762mmの軽便鉄道だったので、写真のレール幅の半分より少し大きいくらいである。

如何に、松電が画期的だったかが分かる。

上の白黒写真と大体同じ位置から撮影している。

この場所にかつて松山電気軌道の江ノ口電停があった痕跡はまったく残っていない。

右にある標識から右に続く道が、思案橋の跡である。現在は埋め立てられている。

ここで興味深い図面を紹介する。それは、三津浜築港平面図である。

この図面はかなり巨大なものなのだが、今回は江ノ口周辺を拡大して掲載している。

真ん中に斜めにかかる橋が、何度も紹介している「思案橋」である。

橋の右側に松山電気軌道株式会社停留所と書かれた部分があるのが分かるだろうか。

その直ぐ上には軌道とかかれている。

これがまさしく松電の軌道なのだが、奇妙なことに点線が左に湾曲しながら伸びている。

方角的には図の右側が松山・道後方面なので、左には軌道は続いていない筈なのだ。

つまり、この点線は計画線で実際には作られなかった部分なのである。

この図には収まりきっていないが、点線は、三津の市場近くまで伸びている。

松電に余力があれば、もしかすると江ノ口~道後間ではなく市場~道後間になっていたかもしれない。

2018年4月撮影の写真である。

最近、漸く江ノ口電停跡地に、紹介の看板が出来た。

同じような看板は、住吉町にもある。

江ノ口電停は、思案橋のたもとに作られていたようである。

この写真では、横断歩道から奥の電信柱辺りだろうか。

右には、ほんの十数メートルの場所に辻井戸がある。

この辻井戸に石碑があり、そこにも松山電気軌道の駅があったことが記されている。

上の写真は、明治43年に撮影されたものである。

思案橋のたもとから、稲荷新地を見た写真である。

大体同じ場所から撮影した現在の写真(2018年)。

奥の土地が手前より高いので、奥の建物辺りが稲荷新地だったのだろうか。

写真奥が松山・道後方面である。 江ノ口を出発した松電の路面電車は次の電停である堀川を目指して走行した。

少し進むとS字カーブにさしかかる。

現在は埋め立てられているが当時は、この道路の左側は堀川が流れていた。 なので、松電の電車は堀川に沿って走っていたのである。 松電が通っていたていた場所は、現在では県道40号線となっている。 つまり、この道路が、そのまま松電の廃線跡というこになる。

上の写真は堀川電停があった場所を撮影したものだ。

堀川が埋め立てられてしまっている為、堀川橋も現在は存在しない。

だが、写真右の場所に親柱が残っている。

この親柱は、地元の人に聞いたところ堀川橋にあったものを埋め立ての際に移設したものだそうだ。

これが親柱である。

この他、もう2つの親柱が別の場所に残っているのだが、形状が違っている。

堀川を埋め立てた時に、別の堀川橋が誕生したのだが、もしかすると残りの2つの親柱は新しい方のかもしれない。

堀川電停を少し進むと、橋に出る。この橋は当時にはなかったものだ。

松電の軌道は、このカーブにそって右カーブする。

カーブした先は、住吉町電停である。

橋の向こう側には、伊予鉄三津駅の駅舎が見えている。

カーブを曲がった所が、住吉町電停の跡である。住吉電停は1911年の開業当初の終点である。 江ノ口まで開通したのが1912年2月1日である。

この妙にひらけた場所が、駅のあった名残とされている。

左の川を挟んだ向こう側は、ライバルである伊予鉄の三津駅である。

当時は、この橋を堺にベルを鳴らして大声を上げての乗客の獲得合戦が繰り広げられていた。

住吉町にも看板がかけられている。

上の写真は昭和4年6月に空撮された貴重な資料である。

今回江ノ口~住吉町までを案内したが、その位置関係が良く分かると思う。

松電は大正10年に伊予鉄に吸収されている。その後、昭和2年に江ノ口~萱町間が廃止されているので、撮影された昭和4年には既に廃線になっている。

それでは、江ノ口~住吉町の案内はこれまで。

次回は住吉町~山西間を紹介する。

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