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ソローキンの見た桜(ロシア人捕虜)と廃線跡

2019年3月22日より、全国ロードショーの始まった映画「ソローキンの見た桜」。

日露戦争時代に、松山にはロシア人の捕虜収容所が存在したのだが、

その収容所でのロシア人捕虜と日本人女性の恋愛を描いたのが本作である。

ほとんど同じ題材のミュージカルである「誓いのコイン」も坊ちゃん劇場で観劇済みということもあり、ストーリーはかなり頭に入ってきやすかった。

日露戦争時代のいロミオとジュリエットとして宣伝されているが、どちらかというと蝶々夫人とかミスサイゴンに近いという印象だ。

さて、愛媛の歴史のことや廃線跡を調べていると、ロシア人捕虜を撮影した写真を見ることも多い。

なぜなら、明治時代の松山の様子が結構写っているからである。

その中でも、今回は鉄道に関する写真を紹介したい。

この写真は1904年(明治37年)の高浜港の様子である。

辺り一面にロシア人捕虜が写っている。

松山電気軌道廃線跡調査でも述べているが、伊予鉄は1888年(明治21年)に松山ー三津間の軽便鉄道を開業し、その4年後である1892年(明治25年)に、三津ー高浜間を開業させた。

これにより、小さなが漁港であった高浜は一気に大きな港へと成長する。

日本で初めてのロシア人捕虜施設ができた松山。

なぜ、松山だったのかは所説あるが、一説には高浜が瀬戸内海の穏やかな港であり、鉄道が港から市街地まで整備されていたからなどの理由がある。

つまり、伊予鉄が松山ー高浜間を開業し、なおかつ高浜が三津とは違い、興居島にかこまれた穏やかな港であることが要因となっているのである。

この写真は、ロシア人捕虜が高浜から松山城下に設けられたロシア人捕虜収容所に向けて歩いている様子である。3000人ほどの捕虜が松山に来ていたので、軽便鉄道であるいわゆる坊ちゃん列車では輸送しきれないのだろう。こうやって、歩いて移動しているロシア人捕虜も結構いる。

坊ちゃん列車と記念撮影している写真もあるので、もしかすると、士官などの偉い人は鉄道で移動したのかもしれない。

この写真では重要なものが写っている。それは、写真左奥のトンネルである。

このトンネルは高浜隧道といって、梅津寺と高浜の間にあったのだが、複線化工事の際にトンネルを崩して橋にしたので、現在は残っていない。

面白いことに、複線化された後に戦争による不要不急線に指定され再び単線化してしまい、そのまま現在は単線である。

ロシア人捕虜が歩いている道は、現在でもおおむね同じ場所に残っている。

ちなみに、捕虜としてつれてこられたロシア兵だったが、待遇はかなり良かったようだ。

なぜなら、捕虜はハーグ条約に守られていたからである。

ロシアは、フランス大使館を通じて、捕虜に給金をしはらっていた。

申請をすれば散歩もでき、時には自転車で散歩したり、道後温泉に入ったり、レストランに入ったり、街で伊予漫才などをみたりしていた。

これにより、松山の街はちょっとした特需となったようだ。

最後に、ほぼ同じ題材を扱った「ソローキンの見た桜」と「誓いのコイン」の共通点があったのでご紹介しておこう。

捕虜収容所のあった場所(堀之内)からほど近い、二之丸史跡庭園で発見された巨大な井戸の中から、ロシアのコインが見つかったのだ。

しかもそのコインには、日本人女性の名前「タケバ ナカ」と「コステンコ ミハイル」という文字が刻まれていた。しかも、ペンダンドにしていた形跡まであった。

この話を題材にしたのが誓いのコインである。

「ソローキンの見た桜」で竹場ナカという女性が出てくるので、ぜひ注目していただきたい。

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